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昨日は鍋島藩について述べた(⇒11/07/23:鍋島藩)。
系図を辿るのは、先祖をよく敬う戦国時代や江戸時代で
どのように影響したかの解釈をする上で重要だろう。私
の狭い見識ではそこまでするのは傲慢であると思うので、
単に興味本位に調べて知っていこうと思う。ちなみに漫
画・日本の歴史シリーズを読破した(小学生当時図書館
にある分)とか、自由研究で斎藤一や渡辺華山を調べた
とか一切関係はない。
まずは鎌倉時代の将軍の姓である「源」から辿ってみよ
う。
さて「源」という氏は、皇族が臣下の籍に降りる臣籍降
下に使われるものの一つであった。姓(カバネ)は朝臣(あ
そみ・あそん)という。
最初に与えられたのは嵯峨天皇の子たちであったという。
桓武天皇の後を継いだ息子・嵯峨天皇は幾人の子を臣籍
降下させて、うち1名は女性で藤原義房の正室となった。
まこと・ときわ・ひろむ・とおる(信・常・弘・融)らは
当時の朝廷で一大勢力を残すも代を重ねるごとに没落し
ていった。
彼らは嵯峨源氏といい、そのなかで子孫を伝えたのは源
融の後裔であったという。
彼の孫が源頼光の四天王で有名な渡辺綱である。「源」
姓でないのは摂津国渡辺(現・大阪市中央区)を本拠地
にし、姓を変えたからだ。その渡辺氏から別れた枝族に
あっては北九州の肥前・松浦氏となる。鍋島の祖もそう
だったように、地方に流れその地の名を冠することはよ
くあったことのようである。
源融の別の孫は筑後・蒲池氏で九州柳川(福岡県福岡市)
にあった。後に肥前・松浦氏から婿養子を迎えて同族化
している。
また平将門の乱において重要な存在となる常陸・源護は、
嵯峨源氏であろうと言われている。
とまぁこんな感じである。
天皇が代わるたびに臣籍降下が行われているようなので
○○源氏というのは幾つも存在する。ネタに尽きないの
で今後も一つ一つおって行くつもりだ。
[今日の一枚]
今日こそはアップせねばと思い描きました。
明日ペン入れするつもり~。

系図を辿るのは、先祖をよく敬う戦国時代や江戸時代で
どのように影響したかの解釈をする上で重要だろう。私
の狭い見識ではそこまでするのは傲慢であると思うので、
単に興味本位に調べて知っていこうと思う。ちなみに漫
画・日本の歴史シリーズを読破した(小学生当時図書館
にある分)とか、自由研究で斎藤一や渡辺華山を調べた
とか一切関係はない。
まずは鎌倉時代の将軍の姓である「源」から辿ってみよ
う。
さて「源」という氏は、皇族が臣下の籍に降りる臣籍降
下に使われるものの一つであった。姓(カバネ)は朝臣(あ
そみ・あそん)という。
最初に与えられたのは嵯峨天皇の子たちであったという。
桓武天皇の後を継いだ息子・嵯峨天皇は幾人の子を臣籍
降下させて、うち1名は女性で藤原義房の正室となった。
まこと・ときわ・ひろむ・とおる(信・常・弘・融)らは
当時の朝廷で一大勢力を残すも代を重ねるごとに没落し
ていった。
彼らは嵯峨源氏といい、そのなかで子孫を伝えたのは源
融の後裔であったという。
彼の孫が源頼光の四天王で有名な渡辺綱である。「源」
姓でないのは摂津国渡辺(現・大阪市中央区)を本拠地
にし、姓を変えたからだ。その渡辺氏から別れた枝族に
あっては北九州の肥前・松浦氏となる。鍋島の祖もそう
だったように、地方に流れその地の名を冠することはよ
くあったことのようである。
源融の別の孫は筑後・蒲池氏で九州柳川(福岡県福岡市)
にあった。後に肥前・松浦氏から婿養子を迎えて同族化
している。
また平将門の乱において重要な存在となる常陸・源護は、
嵯峨源氏であろうと言われている。
とまぁこんな感じである。
天皇が代わるたびに臣籍降下が行われているようなので
○○源氏というのは幾つも存在する。ネタに尽きないの
で今後も一つ一つおって行くつもりだ。
[今日の一枚]
今日こそはアップせねばと思い描きました。
明日ペン入れするつもり~。
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