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昨日は清和源氏の成立頃の時代背景をおおまかに書いた。
(⇒11/07/26:清和源氏1)
その中で私は<清和天皇の幼少の頃に摂政は?>と疑問
を見た。摂政は天皇が政務を果たせない状態であるとき
に代理として政務を果たすものの役職である。疑問に思っ
たのは藤原良房の摂政就任が清和天皇の成人後であった
からだ。
さて近年においては天皇が幼少であったときは摂政、成
人後は関白という役職が置かれる慣習ができている。そ
れは清和天皇から5代後の朱雀天皇の御代に摂政から関
白に転じた藤原忠平が初例であり、61代目天皇までは摂
政という役職もまだ未確定であったといえる。
摂政就任前の藤原良房の地位が行政最高責任者である左
大臣より低かったとはいえ”天皇の外戚”であったため
に政治に口出し権力を拡大することができた。さらに摂
政という天皇の政務代理者の役職を得たことでその地位
権力は磐石なものとなったのだ。
それでは今日は「清和源氏」の子孫の概略を書こうと思
う。
経基王が清和源氏の祖、と昨日は書いたが無論彼だけで
はない。最初の清和天皇御代の最初の臣籍降下した者で
はあった。彼以外にも何人か居る。ちなみに経基王は清
和天皇の孫であり、父は貞純親王であった。
鎌倉幕府成立の立役者と関連のある方を書きたいので雑
多は省略する。
経基王(源経基)の後を継いだのは源満仲であった。彼は
摂津国河辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)を本拠地とし
て武士集団を形成し、「摂津源氏」と呼ばれる。さらに
この摂津源氏の中で多田に住むものを「多田源氏」、傍
流で美濃に土着したものを「美濃源氏」という。「多田
源氏」「美濃源氏」ともに戦国時代に入るに従い氏族が
さらに別れややこしいことになる。
ところで摂津国といえばどこにあたるのか?
現在の大阪北中部の大半と兵庫県南島郡にあたる。前の
ブログ(11/07/24:嵯峨源氏)で書いたとおり嵯峨源氏の渡
辺一党の本拠地・摂津国渡辺は大阪市中央区であり、清和
源氏とは距離的に近いことがわかる。
また美濃国はどこか?
戦国時代の下克上の象徴・斎藤道三の支配した地域とい
えば分かりやすいだろか。はたまた美濃三人衆か。変遷
があるようだがだいたい岐阜県の南部に位置する。
経基王(源経基)の後を継いだ源満仲の子である源頼光、
頼親、頼信はそれぞれ「摂津源氏」「大和源氏」「河内
源氏」を形成する。彼らの時代は「この世をば 我が世
とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」で有
名な藤原道長が生きた時代でもあった。
源頼光は藤原道長の側近であったようだ。摂津国を含め
3国の受領を歴任。藤原道長の権勢が拡大するにともな
い「朝家の守護」と呼ばれるようになる。後に大江山夷
族討伐の任を受け渡辺綱、坂田金時、ト部季武、碓井貞
光と共に赴く。俗にいう「頼光四天王」である。夷族(
酒呑童子)を討つ。
またも余談だが「AirROG」(はちみつくまさん)におい
て、北斗の拳・紫光のソリアが卜部季武、るろうに剣心・
10本刀盲目の宇水こと魚沼宇水が碓井貞光だったりする。
ちなみに斎藤一(るろうに剣心ver)はときおり味方とし
て登場する。
話しをもとに戻す。
源頼信も兄・源頼光とともに藤原道長に仕える。武勇に
優れた人物で平維衡、平致頼、藤原保昌とともに「藤原
道長の四天王」と称される。彼は平忠常が起こした乱を
平定し坂東武者たちと主従関係をむすび東国進出の第一
歩を築く。本拠地が河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳
野市)であったため「河内源氏」と呼ばれる。
3人の中では末弟の源頼親も藤原道長に仕え数カ国の国
司(中央から派遣される地方行政官)を歴任する。兄弟揃っ
て武勇に優れた人物だったようだ。拠点としては父・満
仲から相続した摂津郡豊島郡(大阪府豊中市ほぼ全域)を
地盤とし確立するよう努めた。しかし結局果たせず。そ
こで3度に渡る大和守任官の際し、同地での勢力拡大に努
めた。彼の次男頼房の暴走で多数の死者を出したことか
ら責任を追求され土佐国(高知県のあたり)へ配流(流罪)
された。以後の消息は不明。源満仲の子で有力な3人の
中で一番薄幸であったように思える。
こうして「清和源氏」は「摂津源氏」「大和源氏」「河
内源氏」へと別れ、近畿から東国へ幅広く反映していく。
「摂津源氏」でも述べたように、そのなかでさらに氏族
が分かれるためややこしくなる。明日からは「摂津源氏」
から順に別れていく氏族を追ってみたいと思う。
[今日の一枚]
ざっくり配色してみた。
光源がちょぃおかしいのは書いている間に直してく。

(⇒11/07/26:清和源氏1)
その中で私は<清和天皇の幼少の頃に摂政は?>と疑問
を見た。摂政は天皇が政務を果たせない状態であるとき
に代理として政務を果たすものの役職である。疑問に思っ
たのは藤原良房の摂政就任が清和天皇の成人後であった
からだ。
さて近年においては天皇が幼少であったときは摂政、成
人後は関白という役職が置かれる慣習ができている。そ
れは清和天皇から5代後の朱雀天皇の御代に摂政から関
白に転じた藤原忠平が初例であり、61代目天皇までは摂
政という役職もまだ未確定であったといえる。
摂政就任前の藤原良房の地位が行政最高責任者である左
大臣より低かったとはいえ”天皇の外戚”であったため
に政治に口出し権力を拡大することができた。さらに摂
政という天皇の政務代理者の役職を得たことでその地位
権力は磐石なものとなったのだ。
それでは今日は「清和源氏」の子孫の概略を書こうと思
う。
経基王が清和源氏の祖、と昨日は書いたが無論彼だけで
はない。最初の清和天皇御代の最初の臣籍降下した者で
はあった。彼以外にも何人か居る。ちなみに経基王は清
和天皇の孫であり、父は貞純親王であった。
鎌倉幕府成立の立役者と関連のある方を書きたいので雑
多は省略する。
経基王(源経基)の後を継いだのは源満仲であった。彼は
摂津国河辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)を本拠地とし
て武士集団を形成し、「摂津源氏」と呼ばれる。さらに
この摂津源氏の中で多田に住むものを「多田源氏」、傍
流で美濃に土着したものを「美濃源氏」という。「多田
源氏」「美濃源氏」ともに戦国時代に入るに従い氏族が
さらに別れややこしいことになる。
ところで摂津国といえばどこにあたるのか?
現在の大阪北中部の大半と兵庫県南島郡にあたる。前の
ブログ(11/07/24:嵯峨源氏)で書いたとおり嵯峨源氏の渡
辺一党の本拠地・摂津国渡辺は大阪市中央区であり、清和
源氏とは距離的に近いことがわかる。
また美濃国はどこか?
戦国時代の下克上の象徴・斎藤道三の支配した地域とい
えば分かりやすいだろか。はたまた美濃三人衆か。変遷
があるようだがだいたい岐阜県の南部に位置する。
経基王(源経基)の後を継いだ源満仲の子である源頼光、
頼親、頼信はそれぞれ「摂津源氏」「大和源氏」「河内
源氏」を形成する。彼らの時代は「この世をば 我が世
とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」で有
名な藤原道長が生きた時代でもあった。
源頼光は藤原道長の側近であったようだ。摂津国を含め
3国の受領を歴任。藤原道長の権勢が拡大するにともな
い「朝家の守護」と呼ばれるようになる。後に大江山夷
族討伐の任を受け渡辺綱、坂田金時、ト部季武、碓井貞
光と共に赴く。俗にいう「頼光四天王」である。夷族(
酒呑童子)を討つ。
またも余談だが「AirROG」(はちみつくまさん)におい
て、北斗の拳・紫光のソリアが卜部季武、るろうに剣心・
10本刀盲目の宇水こと魚沼宇水が碓井貞光だったりする。
ちなみに斎藤一(るろうに剣心ver)はときおり味方とし
て登場する。
話しをもとに戻す。
源頼信も兄・源頼光とともに藤原道長に仕える。武勇に
優れた人物で平維衡、平致頼、藤原保昌とともに「藤原
道長の四天王」と称される。彼は平忠常が起こした乱を
平定し坂東武者たちと主従関係をむすび東国進出の第一
歩を築く。本拠地が河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳
野市)であったため「河内源氏」と呼ばれる。
3人の中では末弟の源頼親も藤原道長に仕え数カ国の国
司(中央から派遣される地方行政官)を歴任する。兄弟揃っ
て武勇に優れた人物だったようだ。拠点としては父・満
仲から相続した摂津郡豊島郡(大阪府豊中市ほぼ全域)を
地盤とし確立するよう努めた。しかし結局果たせず。そ
こで3度に渡る大和守任官の際し、同地での勢力拡大に努
めた。彼の次男頼房の暴走で多数の死者を出したことか
ら責任を追求され土佐国(高知県のあたり)へ配流(流罪)
された。以後の消息は不明。源満仲の子で有力な3人の
中で一番薄幸であったように思える。
こうして「清和源氏」は「摂津源氏」「大和源氏」「河
内源氏」へと別れ、近畿から東国へ幅広く反映していく。
「摂津源氏」でも述べたように、そのなかでさらに氏族
が分かれるためややこしくなる。明日からは「摂津源氏」
から順に別れていく氏族を追ってみたいと思う。
[今日の一枚]
ざっくり配色してみた。
光源がちょぃおかしいのは書いている間に直してく。
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