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清和源氏の出自と背景、別れた3つのうち「摂津源氏」「
大和源氏」についてこれまで書いた。少し予定を変えて、
今回はそれらに多少付け加て簡単にまとめる。
[時代背景]
中臣鎌足(藤原鎌足)から不比等と権力の比較的強いまま
至る。彼の息子たち武智麻呂、房前、宇合、麻呂が平安
時代初期に入り上位官職を兄弟が握り権勢をさらに高め
た。彼らの流れをそれぞれ「藤原南家」「藤原北家」「
藤原式家」「藤原京家」といった。
「藤原北家」である藤原良房は嵯峨天皇の娘を娶り”天
皇の外戚”となった。清和天皇はその権勢に負けて良房
に”摂政”という、天皇の代わりに政務を取り仕切る、
役職を与えた。これでますます権勢を増す「藤原北家」
もとい藤原氏。
そんな中、経基王(源経基)が臣籍降下した。
(⇒11/07/26:清和源氏1)
[経基王(源経基)の子孫]
経基王(源経基)は平将門の乱・承久の乱を生きた人である。
彼の子を源満仲(源満仲)という。彼は職務でついた国司
の地・摂津国河辺郡多田に本拠地を構えたため多田満仲(
ただのまんじゅう)とも称した。彼ら親子に加え、満仲の
息子たち―――清和源氏一族―――は摂政家ある藤原家
に仕え、栄えた。
(⇒)
注)経基・満仲は古書により食い違いがあり、はっきり
とせず異説ある。
[「多田源氏」]
かぶるが摂津国河辺郡多田を満仲は本拠地とした。ゆえ
にその地に住み着いた流れを「多田源氏」という。その
一人が源頼光である。この回のブログでは「摂津源氏」
としていた。源平合戦(治承・寿永の乱)において源義
経側につき活躍したものの、源頼朝に義経ともども疎ま
れ領地を没収される。その後彼らは氏族を別れさせなが
ら次第に没落、地方に土着していった。
(⇒11/07/27:清和源氏2)
(⇒11/07/28:清和源氏3)
[「大和源氏」]
「多田源氏」同様の結末を辿る。源平合戦において目立
つ活躍ができず、勢力を伸ばせなかったのが原因であっ
た。
(⇒11/07/29:清和源氏4:大和源氏)
[今日の一枚]
夏バテ中……(ガクリんこ
大和源氏」についてこれまで書いた。少し予定を変えて、
今回はそれらに多少付け加て簡単にまとめる。
[時代背景]
中臣鎌足(藤原鎌足)から不比等と権力の比較的強いまま
至る。彼の息子たち武智麻呂、房前、宇合、麻呂が平安
時代初期に入り上位官職を兄弟が握り権勢をさらに高め
た。彼らの流れをそれぞれ「藤原南家」「藤原北家」「
藤原式家」「藤原京家」といった。
「藤原北家」である藤原良房は嵯峨天皇の娘を娶り”天
皇の外戚”となった。清和天皇はその権勢に負けて良房
に”摂政”という、天皇の代わりに政務を取り仕切る、
役職を与えた。これでますます権勢を増す「藤原北家」
もとい藤原氏。
そんな中、経基王(源経基)が臣籍降下した。
(⇒11/07/26:清和源氏1)
[経基王(源経基)の子孫]
経基王(源経基)は平将門の乱・承久の乱を生きた人である。
彼の子を源満仲(源満仲)という。彼は職務でついた国司
の地・摂津国河辺郡多田に本拠地を構えたため多田満仲(
ただのまんじゅう)とも称した。彼ら親子に加え、満仲の
息子たち―――清和源氏一族―――は摂政家ある藤原家
に仕え、栄えた。
(⇒)
注)経基・満仲は古書により食い違いがあり、はっきり
とせず異説ある。
[「多田源氏」]
かぶるが摂津国河辺郡多田を満仲は本拠地とした。ゆえ
にその地に住み着いた流れを「多田源氏」という。その
一人が源頼光である。この回のブログでは「摂津源氏」
としていた。源平合戦(治承・寿永の乱)において源義
経側につき活躍したものの、源頼朝に義経ともども疎ま
れ領地を没収される。その後彼らは氏族を別れさせなが
ら次第に没落、地方に土着していった。
(⇒11/07/27:清和源氏2)
(⇒11/07/28:清和源氏3)
[「大和源氏」]
「多田源氏」同様の結末を辿る。源平合戦において目立
つ活躍ができず、勢力を伸ばせなかったのが原因であっ
た。
(⇒11/07/29:清和源氏4:大和源氏)
[今日の一枚]
夏バテ中……(ガクリんこ
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