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昨日は「清和源氏」が3つの流れのうち「摂津源氏」に
ついて書いた(⇒)。
今日は「大和源氏」の流れを見ていく。「河内源氏」が
一番繁栄したようなので明日以降に書く。
「大和源氏」も「摂津源氏」同様、結果的に没落してい
く。
大和(奈良県あたり)一円に広がり土着していく。以前か
ら抗争を繰り返していた南都(延暦寺を北嶺と称するに
対して奈良死の寺院・興福寺につけられた通称)に組みし、
「大和源氏」と対立する一族の者もでる始末であった。
後白河法皇方と崇徳上皇方とに別れた保元の乱では後者
に味方し捕虜になり流罪になる。しかし南都を牽制した
い後白河法皇により罪を許された。
俗に言う源平合戦(治承・寿永の乱)において目立つこ
とが出来ず、勢力を格段に広げることが出来なかった。
その後次第に諸国へ拡散していくことになる。つまり戦
国時代には家臣団に一族がいても戦国大名として活躍し
た子孫はいなかった、とこういうわけであると解釈する。
○「大和源氏」の末裔
・大和国の宇野氏
・織田信雄に仕えた土方氏
・肥後国の隈部氏
・陸奥国の石川氏
・三河国の高木氏
・伊予大森氏など
勢力および一族を保ち続けるには戦場において目立った
活躍をするしかない。できなければ、あるいは着いた側
が悪ければ没落する。
一族の長は会社の社長に匹敵するプレッシャーであった
ろう。
さて、現代の首相陣に一族(日本国民)を背負う覚悟で持っ
て望んでいるのだろうか。
[今日の一枚;休刊]
先日の日本橋は結局原稿用紙と雑誌一冊買っただけ
でした。
HappyBirthDay To Me!
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昨日は「清和源氏」が3つの流れ、「摂津源氏」「大和
源氏」「河内源氏」に分けられることを書いた
(⇒11/07/27:清和源氏2)。今日はその一つ「摂津
源氏」の流れを見ていく。
源頼光と四天王による酒呑童子退治は非常に有名だ。
しかし「摂津源氏」の中で彼くらいしか知識として私が知
る者はいない。
「摂津源氏」の役目は天皇警護だったらしい。現在で云
うSP(Security Police)的存在だ。
そんな「摂津源氏」が衰退した一番の理由は源平合戦に
おいて多田行綱(多田源氏の棟梁)が源義経軍の一翼を
担い活躍したことだ。これにより源頼朝に疎まれ、領地
である多田の所領を没取されるのである。
以下に箇条書きで示すは源頼光の長男である頼国の流れ
である。上から頼国次男、五男、六男、八男。他の流れ
は省く。
○源頼資の流れ:溝杭氏、平岡氏など
○源頼綱の流れ
・源明国(頼綱長男)の流れ:多田氏、能勢氏、野瀬氏、
手島氏、倉垣氏、昆陽野氏など
・源仲政(頼綱次男)の流れ:馬場氏、太田氏、下間氏、
大河内氏、小国氏、深栖氏、堀氏、及川氏など
・源国直(頼綱三男)の子孫:山県氏、各務氏、多治見氏、
落合氏、清水氏、平野氏、蜂屋氏、関氏、能勢氏、能世氏など
○源国房の流れ:土岐氏、金森氏、明智氏、原氏、肥田氏など
○源師光の流れ:福島氏など
「摂津源氏」が没落する一方、源氏の主流は「河内源氏」
となった。後の征夷大将軍は「河内源氏」の流れからで
ている。「兄より優れた弟なぞいねぇ」と言わなかった
のだろうか。少なくとも妬みには思っていただろうが。
余談として、源頼光の父・源満仲の伝説と経緯を元に三
ツ矢サイダーの名前がついたという話だ。
[今日の一枚:休刊]
田辺が大阪日本橋へ行くというので便乗して旅立つ。自
転車による日本橋訪問は久しく、楽しみだ。
ちなみに明日が誕生日だったりする。かつて実子に殺さ
れると告げられた王様のように、誕生日を素直に受け入
れたくないのだが。
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昨日は清和源氏の成立頃の時代背景をおおまかに書いた。
(⇒11/07/26:清和源氏1)
その中で私は<清和天皇の幼少の頃に摂政は?>と疑問
を見た。摂政は天皇が政務を果たせない状態であるとき
に代理として政務を果たすものの役職である。疑問に思っ
たのは藤原良房の摂政就任が清和天皇の成人後であった
からだ。
さて近年においては天皇が幼少であったときは摂政、成
人後は関白という役職が置かれる慣習ができている。そ
れは清和天皇から5代後の朱雀天皇の御代に摂政から関
白に転じた藤原忠平が初例であり、61代目天皇までは摂
政という役職もまだ未確定であったといえる。
摂政就任前の藤原良房の地位が行政最高責任者である左
大臣より低かったとはいえ”天皇の外戚”であったため
に政治に口出し権力を拡大することができた。さらに摂
政という天皇の政務代理者の役職を得たことでその地位
権力は磐石なものとなったのだ。
それでは今日は「清和源氏」の子孫の概略を書こうと思
う。
経基王が清和源氏の祖、と昨日は書いたが無論彼だけで
はない。最初の清和天皇御代の最初の臣籍降下した者で
はあった。彼以外にも何人か居る。ちなみに経基王は清
和天皇の孫であり、父は貞純親王であった。
鎌倉幕府成立の立役者と関連のある方を書きたいので雑
多は省略する。
経基王(源経基)の後を継いだのは源満仲であった。彼は
摂津国河辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)を本拠地とし
て武士集団を形成し、「摂津源氏」と呼ばれる。さらに
この摂津源氏の中で多田に住むものを「多田源氏」、傍
流で美濃に土着したものを「美濃源氏」という。「多田
源氏」「美濃源氏」ともに戦国時代に入るに従い氏族が
さらに別れややこしいことになる。
ところで摂津国といえばどこにあたるのか?
現在の大阪北中部の大半と兵庫県南島郡にあたる。前の
ブログ(11/07/24:嵯峨源氏)で書いたとおり嵯峨源氏の渡
辺一党の本拠地・摂津国渡辺は大阪市中央区であり、清和
源氏とは距離的に近いことがわかる。
また美濃国はどこか?
戦国時代の下克上の象徴・斎藤道三の支配した地域とい
えば分かりやすいだろか。はたまた美濃三人衆か。変遷
があるようだがだいたい岐阜県の南部に位置する。
経基王(源経基)の後を継いだ源満仲の子である源頼光、
頼親、頼信はそれぞれ「摂津源氏」「大和源氏」「河内
源氏」を形成する。彼らの時代は「この世をば 我が世
とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」で有
名な藤原道長が生きた時代でもあった。
源頼光は藤原道長の側近であったようだ。摂津国を含め
3国の受領を歴任。藤原道長の権勢が拡大するにともな
い「朝家の守護」と呼ばれるようになる。後に大江山夷
族討伐の任を受け渡辺綱、坂田金時、ト部季武、碓井貞
光と共に赴く。俗にいう「頼光四天王」である。夷族(
酒呑童子)を討つ。
またも余談だが「AirROG」(はちみつくまさん)におい
て、北斗の拳・紫光のソリアが卜部季武、るろうに剣心・
10本刀盲目の宇水こと魚沼宇水が碓井貞光だったりする。
ちなみに斎藤一(るろうに剣心ver)はときおり味方とし
て登場する。
話しをもとに戻す。
源頼信も兄・源頼光とともに藤原道長に仕える。武勇に
優れた人物で平維衡、平致頼、藤原保昌とともに「藤原
道長の四天王」と称される。彼は平忠常が起こした乱を
平定し坂東武者たちと主従関係をむすび東国進出の第一
歩を築く。本拠地が河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳
野市)であったため「河内源氏」と呼ばれる。
3人の中では末弟の源頼親も藤原道長に仕え数カ国の国
司(中央から派遣される地方行政官)を歴任する。兄弟揃っ
て武勇に優れた人物だったようだ。拠点としては父・満
仲から相続した摂津郡豊島郡(大阪府豊中市ほぼ全域)を
地盤とし確立するよう努めた。しかし結局果たせず。そ
こで3度に渡る大和守任官の際し、同地での勢力拡大に努
めた。彼の次男頼房の暴走で多数の死者を出したことか
ら責任を追求され土佐国(高知県のあたり)へ配流(流罪)
された。以後の消息は不明。源満仲の子で有力な3人の
中で一番薄幸であったように思える。
こうして「清和源氏」は「摂津源氏」「大和源氏」「河
内源氏」へと別れ、近畿から東国へ幅広く反映していく。
「摂津源氏」でも述べたように、そのなかでさらに氏族
が分かれるためややこしくなる。明日からは「摂津源氏」
から順に別れていく氏族を追ってみたいと思う。
[今日の一枚]
ざっくり配色してみた。
光源がちょぃおかしいのは書いている間に直してく。
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文徳源氏については昨日書いた(⇒11/07/25:文徳源氏/B'zライブ)
さて次はもっとも有名であろう「清和源氏」の話である。
清和源氏には鎌倉幕府を開いた有名な方がいらっしゃる。
しっかり書いておきたいので明日含め2,3回に分けて
書こうと思う。今日は時代背景を記す。
毎度のことだが清和天皇の子が臣籍降下したのが清和源
氏である。外祖父である藤原良房の圧力により皇太子と
なり天皇になった文徳天皇の子である。即位はわずかに
9歳。藤原良房が政治の実権を握っていた。
当時の左大臣は源信(嵯峨源氏)であり行政最高権力者
であった。藤原良房の当時の地位は太政大臣であり及ぶ
ところではないのだが”皇族の外戚”という事実が律令
制とはまた違った権威をふるうのである。ドラマでも王
家一族の専横で臣下の言を潰したりといった話はよくあ
るとおりである。
こういった状況の中で応天門が放火された。大納言半喜
男(とものよしお)は左大臣源信と告発したが、太政大臣
藤原良房のツルの一声で逆に犯人とされた。大納言半喜
男は源信と仲が悪かったようだから告発自体ガセネタだっ
たのだろう。その事件後から左大臣源信はショックのた
め蟄居、気分転換の狩りで落馬し命を落とす。あながち
犯人は藤原良房の手のものだったに違いない。
ともあれ事件を解決した藤原良房は摂政へと昇格する。
摂政という地位はは三公(太政・左右大臣)の上であっ
た。それは君主が幼少、病弱などまともに政務が出来な
い理由で別のものが政務を取り仕切る必要があったから
だ。
その当時においてはすでに元服していた清和天皇であっ
たが、藤原良房の権勢が凄まじく政務を取り仕切る自信
がなかったのかもしれない。あるいは放棄したかもしれ
ない。
こうした経緯で天下は藤原一族のものとなったわけであ
る。正確には藤原北家隆盛の基礎を確立した、である。
少し藤原氏のことを書くと、藤原鎌足の子・藤原不比等
の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人が奈良時
代前半(当時の天皇は聖武天皇)に政権を握る。彼ら4人
の子孫がそれぞれ藤原南家・北家・式家・京家となって
いく。
藤原良房は藤原北家の一族で、他家一族は政治的に衰退
していた。藤原道長も当然北家である。
さらに余談だが武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人の死は
『AirRPG』(はちみつくまさん)でネタに使われた。これが
結構おもしろかったりする。
話を戻す。
そういった藤原北家天下のとき、清和源氏の祖・経基王
(つねもとおう)が源姓を賜り臣籍降下となったのが清和
源氏の始まりとなる。経基が生きた時代は「将門の乱」
「藤原純友の乱」が起きたりしておもしろそうである。
機会があったら書くこととして今日はこれまでにする。
[今日の一枚]
予告していた線画です。
前髪は彩色時に整えようとしてわざと書いてません。
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嵯峨源氏については昨日書いた(⇒11/07/24:嵯峨源氏)
今日は文徳源氏だ。
臣籍降下させた人物は文徳天皇である。彼は55代目の天
皇であり、その後56代目に清和天皇がいる。文徳天皇は
叔父・藤原良房、つまり52代目嵯峨天皇の娘を妻にした
男が権勢をほこっており、両者の暗闘が続いた期間でも
あった。天皇の継承問題においては藤原良房が文徳天皇
を殺害したという暗殺説が取り沙汰されるほどだったと
いう。
文徳源氏は多くのものが子孫を伝えているようだ。
しかしながら渡辺綱のごとき現代でも名の通った人物を
見つけることができなかった。もちろん、私の主観では
ある。
没落というよりは民衆に溶けこんでいったか断絶したか
していったのだろうと思う。
閑話休題。
今日はロスで行われたB'zのライフ中継をUStreamで
見ていました。
およそ11時48分に始まり、13時過ぎにかな、に終わり
曲目/進行は以下でした(JP:日本語、En:英語ver)。
[○○]は途中の行動。
さまよえる蒼い弾丸(En)
Juice(En)
friction
My Lonely(JP)
イチブトゼンブ(JP)
HOME(EN)
OCEAN(JP)
今夜月の見える丘に(JP)
Calling(JP)
LoveMe Iloveyou(JP)
裸足の女神(JP)
[松本 席に何か(多分ギターのつめ)投げ入れる]
[バリースパーク 増田 大庭 シェーン(ドラム) 松本]
SPLASH(En)
Brotherhood(En)
愛のバクダン(JP)
ギリギリChop(JP)
BANZAI!(JP)
[休止:アンコール]
さよなら傷だらけの日々(JP)
ultrasoul(JP)
松本と稲葉の笑顔が素晴らしいの何のって。
何このスマイル、素敵すぎじゃない!ってね。
あんな素敵な笑顔のできる40代になりたいです。
[今日の一枚]
昨日の下書きはただいまペン入れの途中です。
明日にはおみせできるかと。
代わりというわけでもないですが、サイトのリニュー
アル用に描いてたチップ……のボツになりかけの
ものをアップ。
